一生モノのラストウォッチとしてあがるブランドには時計雑誌の目線としては、「成功者の腕に似あう・・・」パテック、バセロン、ブレゲ、AP・・・ランゲ、グロスマンなどなど?あるいは今ならリシャールミルとかウブロとか。
しかし、成功者というのは高級時計をつけていないといけないのか?
最近僕が見ていいなと思ったのは、亡きジョブス氏のセイコー。使い込まれたベルトはサイズさえ合っていません。しかし、なにか非常に恰好いい。何故こんな時計が恰好よく見えるのだろうか?と思うに、それは他でもなくジョブスさんがつけていた時計だからなんですね。ジョブスさんが先にあげた高級時計をつけていたとしても恰好よく見えたでしょう、きっと。ああ、やっぱりねと納得。しかし、ジョブスさんはセイコーの普通の時計でも恰好よく思わせる。
言うまでもなく、その理由は、ジョブスさん自身のカリスマ性がそのセイコーに宿っているからですね。
つまり、腕時計はなんでもいい。それをつけている人が腕時計で飾らなくても(ある程度の常識的なナリは必要でしょうが)その人自身が光っていれば、モノも自然に光るものなのだろうなと思います。
そして何より、使い込むことですね。使い込まれて、その時計がその人の一部になっている姿は非常に恰好いい。ウォーホールやサンローランのタンク、エルビスのベンチュラ、ヘミングウェイとバブルバック、アインシュタインとパテック、植村直己さんとセイコーダイバー、その腕時計と人が一対になっている感じですね。そういう感じが僕としては理想かな。
そして、人生とはご存じのとおり、成功ばかりではありませんね。 短期につき長期につき、山あり谷ありが普通の世の中、いろんな波を乗り越えてきた、あるいは乗り越えるべき相棒とは?といったところでしょうか。落ち込んでるときにもその時計を見ると平静でいられそうな時計はそうそう見つけられるものではありませんが、見つけようとしなければ見つかるものなのかもしれません。