気まぐれ腕時計館

腕時計好きになって31年。貯めてきた戯論を気ままに書いています。

存在の耐えられない軽さ

そもそも始まりは去年の今頃にSNS繋がりの友人が軍用時計について書き始めたのに影響されたことによる。

最初はTIMEXから。

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直径36mmのクオーツミリタリーはステンレスのケースだが、43gと非常に軽い。

軍用時計も含めてスポーツウォッチについて考える時、軽さと見やすさこそアクティブに動くためには重要であるというのが持論で、その考えには揺らぎはない。

ダイバーズでも82gのチタンソーラー。

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そして究極はノームコアの代表のようなこれらに行き着いた。

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カシオは19g、スウォッチは17g。

もうつけている感覚すらなくなるような、

質量とともに信じられないくらいの存在の軽さ。しかもこのカシオを使って南極を冒険しようとした人のブログを見たりすると、腕時計なんてどんなものでも地球環境では深海でなければ使えるんだろうと。そして僕は元気を失くしつつあった。

ある種の腕時計好きにとって腕時計は活動の源力。この時計を使って何をするか?何処へ行くか?どんな挑戦をするか?そういう力を腕時計はくれる。

そこには「らしさ」というのがある。

「らしさ」というのはイメージであり、そのイメージが活力となる。このイメージは重要で月にロケットを送るのだって、そういう発想がなければ、そこに挑戦する機も訪れない。イメージを現実にする力を人間は持っている。その源は各人色々あると思う。モノであったり、もっと違う何かであったり、食べ物や家族愛だったりもする。それぞれが大事にしているものからイメージはどんどん膨らむ。だから時計好きにとっては腕時計だったりするわけです。

 

つまるところ、

腕時計好きにとって存在を忘れるくらいの軽さとは、想像力の欠如を招き、活力を失う危険すらあることに気がついた。

 

スポーツウォッチは軽いに越したことはない。

真剣に1秒やそれ以下の単位を争う競技などにおいて重いのは罪であるし明らかにハンデとなる。

 

だけど、真剣に詰めるのでなければ、すなわちレジャーであるとすれば、おそらく多くの中高年にとってもはやスポーツは真剣勝負ではなくレジャーだろうと思うのだけど、そうなると活力が必要。「やる気スイッチ」ですね。

 

ある種の腕時計好きな僕にとって、この時計は今日現在エネルギーの源になってくれています。凄く重いけど、その重さを使いこなしていやるという気力を、タートルは与えてくれます。タートルに限らず多くのセイコーダイバーズは本物のハードユースウォッチ

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この時計達が似合う何処かに連れ出してやりたい。そんな気持ちにさせるのはノームコアウォッチでは僕は無理でした。